2018年3月18日日曜日

空虚なるリビング 生きるのに何もいらないねって横たえる椅子

めきめきと春めきだして、ワンピース、缶ビール、恋しい。アイスクリームたべたい。若葉が見たい。土の上を歩きたい。ぜんぶもう出来る。冬は終わったから、もう大丈夫だと思う。


でも風邪をひいて、やすみなのに部屋でずっと眠っている。眠っていないときは、横になったまま天井をみつめて、なんとなく泣くことしかできることがない。つまらないから映画を何本も見た。なにがなんだかわからなくなった。


何年か前、長いこと体調がわるくてふさいでたころ、こうして天井をぼんやりみつめては、殺したいと思っていた。心の奥底から、湧くように、天井を殺したい、とそう思うのだった。あれはなんだったのか。天井を殺す、とはどういうことなのか、今となってはわからないし、あの頃だってわからなかった。天井をなくしたいわけでもなかったし、外へ出たいわけでもなかった。ただ目の前にべろんと君臨する天井を(それがぐにゃぐにゃと膨らみはじめている気がして)殺したかった。いつの間にか、そんなことは思わなくなった。天井が死なずに(膨らみもせずに)ここにあって、良かったなぁと思う。天井がなければ、わたしは外へ出かけることもできない。今はむしろ、天井を守りたい。


あの覚束なかった日々に、さよならを言いたい。天井のことを思い出すのをやめたい。でも日々はいつも、四季のように数珠つなぎ、どうどう巡り、スパイラル。また春がきてそれからどうなるのか。明日は出掛けたい。ワンピース、缶ビール。








2018年3月8日木曜日

melon

ちっちゃいとき、メロンの模様にマジックで色を塗ろうとして怒られたことがあって、そのときの無念な気分を今でもたまに思い出す。今なら大人になったから、やろうと思えば自分でメロンを買って塗れるけど、自分で買ったメロンに色を塗るのはいくらなんでも嫌だ。だって色が塗られたメロン食べるの嫌だもの。かといって色塗っただけで食べずにどうかするのも嫌。なので誰か私にメロンを買ってくれませんか? と言っても誰かが折角買ってくれたメロンに色を塗るのも嫌なのでやっぱり今のは忘れていただいて結構です。ああメロンの方から私のところにコロコロ転がってやってきて、ねぇあなた、どうかわたくしの模様に色を塗って下さらない? わたくしね、食べられて死ぬのはどうしても嫌なんです、それならいっそ、華やかに塗られて死んでみたい、って頼み込まれたらそれはもうWINWINの関係ということで、ありがたく塗らせていただくけれど、そんなことあるわけないから嫌嫌嫌。これはもうただのワガママなんだってわかっちゃあいるが、ああこのままでは死んでも浮かばれないです。永遠にこのことを想い続けるんだろうよ私は。

2018年1月2日火曜日

12/24〜12/31

十二月二十四日

クリスマスソングを聴きながら職場の障子を貼り替えるなど。父がものすごい風邪をひいていて、クリスマスケーキについてきた保冷剤を早速活用した。買ってきたもので簡単なパーティ。




十二月二十五日

仕事が終わりスーパーに寄ったら、クリスマス商材は既にひとつもなく、店内装飾やBGMもお正月のそれだった。切り替えがはやい。



十二月二十六日

僕たちの青春、あのときのあの場所は今はもうすっかり変わってしまった。それはもうどこにもない。永遠に失われてしまった。鳥貴族にはがっかりしたよ。あと四文屋。わたしの好みがかわっただけかもしれないけどさ。でも鳥貴族がすき。


あと、西荻窪のイルミネーションはひどい。










十二月二十七日

ここ数日気分の浮き沈み、というか高揚と停滞が激しすぎて、ついにはまぜこぜになってしまい、ノリに乗っててきぱき活動的にやることをこなしつつも絶望的なまでにテンションが下がっているときなどがある。自分のことなのに疲れるからやめてほしい。いつもウキウキしていたい。




十二月二十八日

夕食を摂るのも忘れて眠った。いくらでも眠れるような気がする。昼間職場の庭の奥の方にたまった落ち葉をガッツリ掃いていたら、落ち葉の下からカエルが出てきた。さすがにもういないだろうと思ってたから、そりゃあもうびっくりしたけど向こうも驚いていた。顔がびっくりした顔だった。カエルって常にびっくりしてる顔のやつかいつも無の表情のやつしか知らないけど、今回はいつも無の表情のやつがびっくりした顔になってたから本当にびっくりしたんだと思う。寝てたのにいきなり布団をはがされて状況がつかめません!っていう顔。申し訳ないので掃いた落ち葉の一部をカエルのところだけ元に戻した。


写真うつってる人全員撮り鉄のひと。



十二月二十九日

仕事納め。夜、蕎麦屋で蕎麦を食べようとしたら売り切れだった。年越し蕎麦が足りなくなったらいけないのでもったいぶってるのだろうか。うどんを食べた。



十二月三十日

髪を切りに行って、染め直してトリートメントもして、デパートで新しい化粧品を買った。デパートの化粧品コーナーで周りの女の人たちを見ていると、自分が本当に女の人かどうか不安になる。怖くてくらくらして、わたしは上滑りのように買い物をする。自分は女の人の皮をかぶっただけの、でも男でもない、女の偽物なのではないか。自分の見てくれが不安で仕方ない。一応それなりにおしゃれは好きだし、こだわりをもって気も使ってるつもりだけど、いつまでたっても完成しない。ずっとダサい。ここにいる人たちのように完成していない…………。はやく自分のそれらしさを認められるようになって、完成したい。




十二月三十一日

正月の準備に明け暮れる。正月料理って手がかかるんだよな。買い物やらなんやかんやで休みが一日つぶれる。家にコンロが四つくらいと、自分の手が八本あればいいなあと、煮物の灰汁をとりながら本気で考える。母がいた頃はほとんど母が準備をしてくれて、私は興味本位でちょこちょこ手伝うくらいだったから、大晦日はだらだらするもんだと思っていた。うちの正月は、玄関とリビングと仏壇にお正月の花を飾って、大晦日にはそばと天ぷら。元旦にはお雑煮やおせちに合わせて、里芋などの煮物と茹で小豆。正月料理に飽きる頃に、カレーや鍋物。といった感じなんだけど、年末の母は寒い中いつも材料の買い出しで街じゅう走り回っていたし、大晦日はずっと台所に立って準備をしていた。

 母のいない正月を迎えるのは三度目になる。初めてのときは喪中だし、普通は質素な正月にするべきらしいんだけど、母がいたときと同じようにしなきゃなんか悔しいし、母もがっかりするのではないかと思っていつも通りの正月を目指すことにした。年を越す前にお雑煮と天ぷらのリハを二回くらいして、当日もヘトヘトになりながら母がやってくれた正月をほぼ完コピした。たぶん程遠かったけど。去年からはリハはしてない。毎年必ず少しは上手くなっていたい。今年もリハはせず、でも去年よりも出汁にこだわってお蕎麦と天ぷらを作った。美味しくできたんだけど、いつの間にか父も年をとって、弟も食べ盛りをすぎて、私もいよいよアラサーの胃腸になったので、例年通りの量を食べきることができなかった。いつもならぺろりと平らげていたのに。母さん、私も歳をとったよ。いろんなことが次第に変わっていく。紅白に出てる人もなんかよく知らない人ばっかだった。少しセンチメンタルな大晦日。来年は今年より若々しくいたい。




12/22〜23 日光

十二月二十二日

十二月二十二日。十二月二十二日ともなると、もうこれが日付を示しているのかどうか曖昧な表記になるな。


日光へ。念願の日光東照宮。念願だったとはいえ、見ものは三猿と眠り猫くらいかなと思っていたんだけど、甘かった。真冬の山の一角に、豪華絢爛極彩色の建造物たち。そしてそこに刻まれた、それはそれはたくさんの獣たち。その絢爛さたるやもはや異常なほどで、時間も気力もなくてほとんどお化粧もせずにここを訪れてしまった自分は消え入りそうなほど。彫刻の数は軽く五千を超えるらしい。全種類写真撮りたいと思ってたけど、さすがに無理だった。有名な三猿はやっぱり大人気だったし、とってもキュートでドラマがあった。あと、実物の象を見ずに、聞いた情報だけで描いたという象の彫刻も良かった。ほかにも、たくさんの鳥たち、干支の動物たち、猫、龍や獅子や麒麟などの霊獣たちなど、盛りだくさん。見上げすぎて首が痛い。動物たちに見下ろされる夢も見そう。


現在大規模な修繕が行われているところもあり、その途中の様子が一部見えたのも良かった。漆塗や箔押しなど着色の果てしない工程を紹介するパネルや、ひとつひとつの彫刻の色の指示する古い巻物みたいなのも展示されていた。これだけの建築、というか永遠の絢爛さ、を維持管理するのは生半可なことじゃないと思う。世界遺産だから残さねばならぬのは勿論としても、世界遺産になるまでも江戸時代からずっと廃らせまいとしてきたから世界遺産になったのであろうし、なんだかもう狂おしいものを感じる。


夜は鬼怒川温泉に泊まった。


















十二月二十三日

日光江戸村へ。行きしなに偶然、SLが走っているのを目撃した。初めて見るSLは触れそうなほどいっぱいの蒸気を従えてむこうから走って来て、汽笛のぽー、ぽ、ぽ、という音が誠実でかっこよかった。


日光江戸村も想像をこえる楽しさだった。大人でも一日はしゃげる。忍者が手裏剣を教えてくれたり、三味線も触らせてもらった。手裏剣は、実践を想定するとかなり難しいと思う。的が止まってるならまだいいけど、動き回ってる人間に刺さるよう投げるのはよほど熟練してないと絶対無理。ミスって敵の足元にコロンって落ちたりしたらめっちゃダサい。
















2018年1月1日月曜日

12/17〜12/21

十二月十七日

壁にいろんな影が落ちていた。天井にも。それを右から左へ、ぐるりと見回していくと、窓から伸びた金色の日差しがぴとぴと、細い指で部屋中にさわっていくみたいに、わたしの視線を追い掛けてくる。そういう感じがした。ピアノの音色になりたい。もしこの部屋に今いるのがわたしでなくピアノの音色だったら、すごく自然だったのになぁ、なんて。




十二月十八日

深夜、日高屋に行ったら、お客さんがわたしひとりになってしまった。店員さんはふたりいて、ひとりは恐らく新人さんなのだろう、もうひとりのベテランぽい店員さんに、ばばばばと食洗機の使い方を説明され、はい、はい、と返事をしながら、覚束ない手で食器を下洗いしていた。食器同士がガチャガチャぶつかり合う音や、地獄の装置みたいな食洗機の音、先輩店員が槍のごとく放つ低い声と、新人店員のはい、はい、が店内に積み上げられていくみたいに響き続けて、そこにBGMの呑気なクリスマスソングが重なるから、なんだか生きている心地がしなかった。月曜の夜からこんなふうに浮かない気分でひとり食事している自分が、すごくいやだった。ラーメンの麺はどんどんゴムみたいになって、背中をぼんと叩かれたら泣けそうだった。自分がいるところがあの食洗機の中のように思えてくる。洗浄完了とともに排水口の中にずるずると流れていく。



十二月十九日

夢。トタンの屋根の広い小屋の床面に、一面のヒメツルソバ。ピンク色の丸い花はぽわんと発光していて、小屋の中はわたしの腰高くらいまで黄色い光につつまれている。腰から上はほとんど闇。真っ暗な天井を月に似せた丸いボールがゆっくりごろごろと転がってるのを見て、それがどういう仕組みなのか知りたくて目を凝らしているという、そういう夢を見た。



十二月二十日

特にまわりに人がいないのに大々的に光り輝いているイルミネーションを見ると「えらい!」と思う。特にコンピュータ制御された、たとえば流れ星のように光が流れたり、毎時で音楽とともにリズミカルな点滅を行なったり、波のように色が変化する、などの演出がなされている場面。さらに、そこに可愛らしい熊やサンタクロース、トナカイ他、何かしらのキャラクターがあしらわれているときは一層のこと。都市部からすこし離れた、郊外だけどまぁそこそこなんでも揃ってる大きめな駅まわりで、夜おそい時間によく見かける光景。たとえいま世界が終わったり、その街から忽然と生命が断ち消えるようなことがあっても、光たちは健気に、律儀に、クリスマスの特別なショウを続けると思う。冬の夜のつめたい空気にぴしゃぴしゃになりながら、背中をまるめて歩いてるときにそういうの見ると、えらい、えらい。と悔しくなる。





十二月二十一日

永遠に夜間モードにしていたい




2017年12月27日水曜日

12/8〜12/10

十二月八日

ふと思い立ってブランケットとスヌードを自作した。あと、適当な巾着袋をいくつか自作したいんだけどちょっともうめんどくさい。





十二月九日

吉祥寺シアターに、ホナガヨウコ企画×さよならポニーテール『ななめライン急行』を観に行く。どうにも空回っていたり、うだつがあがらない感じだったり、人のことをちゃんと信じられなくてうまくいかなかったりする「ななめ」なひとたちが、いつの間にやら乗っている急行列車のおはなし。ポスターには「ふりつけされたえんげき」とあり、全編コンテンポラリーダンスで進行する。

舞台もダンスも普段あまり観ないのだけれど、身体表現のエネルギッシュさに圧倒されてオープニングから涙がでそうになる。なにかを表すために人間の骨や筋肉がぐねぐねと動かされ、表皮、表情も迷うことなくそれについていく。走ったり、跳んだり、寝転がったり、叫んだり、眼を大きく見開いてぎゅっと瞑ったり、眉や口角もねぐねと。それでなにかを伝えるために。

子供の時から喜怒哀楽をあまり表に出せない人間だったから、演劇をやっている人のエネルギッシュにうごく肉体がすごく羨ましい。人間であることを出し惜しまずに、余すところなく表に出している。私もあんなふうになりたいと思って、演劇部に入ったり学芸会で主役になってみたりしたこともあった。現実では無理でも、舞台の上でなら私もそれをやっていいことになると思って。肉体で表すこと。最初は気持ちよくできたけど、結局劇の練習のあとどんな顔で教室に戻ればいいかだんだんわからなくなってきて、やっぱり自分はそんなこと思いっきりできる側の人間ではないのかもしれないと思って辞めてしまった。そのかわり毎日日記をつけるようになって、言いたいことや感情や表したいことは文字で発散できる、と思うようになった。それから長いことずっと、書くことでなんとか気が済んでいるけど、例えばそれもつらいとき、本来文字にするよりも先にもっと密接に感情と結びついているはずの肉体(とくに表情に出すことや声に出すこと)がぎこちなくしか動かせないのはやっぱりすごくもどかしい。

 

上記のような理由で、私もたぶん「ななめ」な人だし、「ななめライン急行」に長いこと、それはもう何駅も何駅も乗っている気がする。どこかで降りないといけないけど、どうしたらいいのかずっとわからなかった。今日背中を押してもらえた気がする。観ているそばから身体がうずうずした。




十二月十日

アップルパイ。アップルパイを焼きたい。あみあみのやつ。カスタードもつくる。焼きあがったら、あついうちにバニラアイスを乗せてたべる。あればキャラメルソースもかけた方がいい。でも、キャラメルソース持ってない。