2017年6月9日金曜日

ゆびきり

指、絆創膏を巻いていたところがふやけて、白くぶよぶよになってしまった。当の傷口は薄く笑みを浮かべた唇のようで、私はつい、深海魚、と口にする。自分の指を見て深海魚のことを思うとは。気味が悪くて、でもじっと見てしまう。一生このままだったらどうしよう。今後ずっと、人差し指の先に深海魚を住まわせる。私が私の左人差し指で触れるべきものに、間借りの深海魚が触れる。私の代理として。私そのものとして。


半分ギョッとしたまま、もう半分は圧力をかけるための見張りのような気持ちで、私はしばらく己の指を見ていた。ずっと見つめていると、ほんとうにどこかの海辺で、砂浜に打ち上げられた深海魚と対峙しているようなかんじがしてくる。自分のゆび、手のひら、甲、つめ。すべて幻のように思えてくる。静かな幻のなかに深海魚が、ぼうっと白く発光して、へたれて、居る。何も言わずこちらをみている。蒸発していく水分の匂い、いや、深海魚のにおいがする、気がする。


このままどんどん渇いていったら、深海魚は死ぬのだろうか。想像の中で、私は慌てて、そのからだを押して海に戻そうとした。両手がこの生き物に添えられ、左手の人差し指が、この生き物の口元にめりこむ。重くて、砂は湿って、私は汗をかいて、ようやく、生き物を水際へと押し出して、さあ手を離すと、深海魚の顔に、私の手の跡がついている。私の手の形に、くっきりと凹んでいる。跡は、水分を取り戻しゆくなかでゆっくりとふくらんで消えて行くようだけれど、深海魚は動かない。泳がない。笑いもしない。そして、やっと元のぶよぶよの姿に戻ったところで、深海魚はうすく開いた口から血を吐く。


はっと我に返って指を見る。ずっと見ていたのだけれど、見る。一部だけ私でない部分。皮膚の表面が少し乾いてきたからか、より白く濁って影を持つようになり、口元は硬く笑みを失っていた。とっさに握った手の内に、深海魚のいる感覚は無かった。


ある人に、中くらいのダンボールいっぱいのジャガイモをいただいたのだった。近所の人に分けたり、積極的に使うようにしてはいたけれど、そう簡単に消費できる量ではなかった。

箱の中のすべてのじゃがいもから今にも芽が出そうで、深夜、ふと目が覚めて水を飲みにキッチンへ行ったときなど、ダンボールから音がするような気配すらした。


なんとかして使いきらなければならないと思って、週末に肉じゃがとカレーとポテトサラダとソテーを一気に作ることにしていた。指は、その時に切った。幾つものじゃがいもの皮を剥いているうちに、右手と左手とじゃがいもの区別がつかなくなった。その瞬間、キッチンの蛍光灯の白い光が、包丁にぼんやりと、でも白々とたしかに映っていたのを覚えている。


ぼうっとしていたと思う。痛みは稲妻のようだった。深く切ったわけではなかったので、出血は大したことなかったけれど、流水で傷口を洗っているときのそれは、するすると流れていく他人の涙のようだった。血がとまってから絆創膏を巻いて、ビニールの手袋をして、左手が捕らえられたようになりながら、カレーとポテトサラダだけ作った。その間傷口はすこしだけズキズキして、ビニール手袋の中に小さな新しい心臓をしまっているかのようだった。