2016年3月19日土曜日

おこられねこ

民家の軒先から、猫の喧嘩のような声が聞こえてきた。
見ると、黒猫が茶トラに説教されていた。茶トラがアウアウ怒り続ける中、黒猫は人でいうところの土下座のような格好をして黙っている。
喧嘩かと思って野次馬な気持ちで覗いてみたものの、実際はいかにもな説教シーンだったので「あっ…みてはいけない場面をみてしまった…」という気持ちになり、なんとなく黒猫に悪い気がして私は立ち去ろうとした。
しかしふとまわりを見ると私以外にも何人かの人が目を丸くして立ち止まり猫の説教シーンをみつめているではないか。ニヤニヤしながら見てるおじさんとかもいたし、私は「みんな見てるじゃん」と思い直してその人達ともうしばらく野次馬を続けた。
茶トラはブチ切れているわけではなかったが、あくまで冷静に、感情的になりすぎずに言うべきことは言う、みたいな怒り方に見えた。手も出さない。でもけっこうしつこい様子で、なにか言いたげなのをこらえながら頭を下げ続ける黒猫が不憫だった。人間界でもこういうことあるよ、負けないで、と思いながら見守った。まわりの人も同じ気持ちだったのではないかと思う。
しばらくすると怒っていた茶トラが急にフラフラ歩き出し、のびをしてそのへんにダラっと横になった。気が済んだのだろうか。土下座の姿勢を保っていた黒猫は立ち上がり硬直し、しばらく茶トラをみていたが、茶トラが黒猫のほうを一瞥しなにも言わずにあくびして眠り始めたのを見るととぼとぼ歩いてどこかへいってしまった。
その背中は悲壮感に満ちあふれており、落ち込んでいるのが見てとれるようだったので、私の隣でみていたおばさんは「あらまぁ…帰るところがあるのかしら」と頬に手をあててつぶやき、その場を去っていった。また、説教中の猫らにいちばん近いところで様子を見ていた中学生くらいの少年は、「寝たし」と失笑して近くの自転車にまたがり去っていった。わざわざ自転車停めてみていたのかよと思った。他の野次馬たちもぱらぱらと散っていったが、みんなどことなく曇った表情だった。ニヤニヤしながらみていたおじさんだけが、最後茶トラに近付いていき、「猫も世直し、大変やの」とかなんとか話しかけて無視されていた。土曜日の西荻窪。

2016年3月16日水曜日

3:32

起きた。夜中に目覚めてしまうことが最近は多い。窓を開けるとふしぎである。夜中なのかなんなのか、しずかなのにどこか騒がしい。「動」を感じる。ゴゴゴゴ、ぞわぞわ、とうごめく。何かが。風ではない。風もあるが、むしろ、空気そのもの。窓の外の空気の粒、ひとつぶひとつぶがそれぞれ、うごめいているかんじがある。

窓を閉める。部屋はしずかである。じぶんと、シーツと、掛け布団のこすれる音だけがする。気分転換に音楽をかけた。それでも部屋はしずかであった。空気は和やかである。

朝がきたら私は躊躇することもなく、ざわざわと騒がしい窓の外へ出て行くのだろう。いまそれを考えるとぞっとする。そういえば真冬は逆に、窓の外の空気が凍らされたかのようにぴしゃりと締まっていて、ほんの少しの動きも感じられなかった。そして同じように、部屋でふとんに潜りながら、朝がきたらあのぴしゃりとしたところにわたしが行くのかと、ぞっとしたのであった。

春めきがうごめきだしている。否が応でもそのうち桜が咲くのだろう。母が病気ながらも元気だった頃、桜の季節のたびに「これが最後かしら、」なんて言いながらよく車で近場に見に行った。風が色とりどりに透けてみえて、空気の粒ははしゃいでいて、オーガンジーのスカートが翻るような、賑やかだったあの日々と、同じ季節がまた訪れる。

思えば去年の夏の終わりは、ずいぶんと静かであったし、秋も、静かであった。今日の窓の外のような空気のうごめきは、まったくといってよい程、無かった。冬も、やっぱりしんとしていた。止まっていたのだろうし、止めていたのだろう。だけど、もう、そうはいかないみたいだ。空気はもぞもぞとうごめいて、ふくらんで、パパンと鳴って花びらが舞う。



(冬物をひとつもしまわないまま春物の服を出して、さらに少し買い足してしまった。部屋が服だらけになって、旅行の支度中のよう。)




2016年3月8日火曜日

梅の匂

ついこのあいだまであんなにつめたかった、氷でできた針のようだった雨が、昨日はずいぶんやさしく、肩や頬に降り注いで、夜の空気に靄をかける。もやのなかを歩いていると、ふと、ポッとなにかが香って、わたしは立ち止まった。匂い立つのは梅であろう。そう思って、あたりをくるりと見回すが、そこには、靄のかかった街並みがあるのみで、梅はなし。やさしい雨粒が、梅の花弁をトンと叩いて匂い立たせるのであろう思ったが、ちがったのか。それとも靄がかかりすぎて、梅がみえなくなっているのか。よくわからなくて、わたしは梅の匂まじりの靄を肺にいっぱい吸い込んで、なにもかもうやむやのもやもやのまま、また靄のまちを歩きます。








(このあいだのチューリップはちょっと開きすぎてしまった)

2016年3月6日日曜日

花風

吉祥寺の花屋で花を選んでいると制服姿にマフラーをくるりと巻いた女子高生たちがきてわちゃわちゃとなにか話し合うのが見えた。明日の卒業式で部活の先輩に渡す花を選びにきた様子だった。

花屋は駅ビルの1階にあり、正面のエスカレーターを上がるともう1軒別の花屋がある。
自分が吉祥寺で花を買うときはだいたいその2軒を見比べ、エスカレーターを上がったり下がったりしながら花を選ぶ。駅ビルを離れ街にでれば他のもう少し安い花屋もあるのだが、いつもその2軒を行ったり来たりしてして買う。なぜだかははっきりわからないが、昔からそうしてるから、吉祥寺で花を買うということは私にとってそういうことになってるのだと思う。

例に漏れず今日も私はそうしていて、居合わせた女子高生たちもまた、そうしているようだった。両方の花屋で、またはエスカレーターで、私は彼女らと何度も出くわし、すれ違った。お互いに何往復もしているようすだ。

ふたつの花屋は価格帯もほぼ同じだが、やはり微妙に値段が違ったり、花の種類や色もすこし異なっている。とはいえどの店で売られようと花はみなうつくしく、目移りするのは仕方ない。例えば予算が決まっていて、その予算内で、すこしでもうつくしい、気持ちのこもった花選びをしようとすると、やっぱりすごく悩ましい。女子高生たちもそれで悩んでいるようだった。

「このピンクのバラ、ちょっと高いけど先輩たちのイメージはやっぱこのピンクなんだよね、でもこれだと予算的に1本だよね」「それなら、ちょっと違うかんじのピンクだけどあっちの店のチューリップ2本にするほうが喜ぶかな?」

私がエスカレーターを登るとき、彼女らは降りて行き、私がエスカレーターで降りるとき、彼女らが登っていくときが何度かあった。すれ違う度に彼女らのそんな跳ね回るような会話がきこえて、あの人たちもずっとああやって悩んでるんだと思った。彼女らに心から共感し、行き交うたびになにかが交わっていくようにも思えた。

身に覚えがある。同じ記憶がある。そういえば私も高2のおわりの春、全くおなじことをしていたのだった。先輩の卒業式で渡す花を、予備校帰りにここで選んで…エスカレーターを登ったり降りたりしながら悩んで悩んで…。

結局どっちの店で、なんの花を選んだのだったか、今となってははっきり覚えていないが、あのときのことを、あのときの風の匂いごと、気がつけば思い返していた。ローファーを履いていて、マフラーを巻いていて、スカートは短くて、ブレザーの袖からカーディガンの袖を出して握っていた。先輩たちと会うのも明日で最後か、でもOBOGとかいって春休みとかには部活来るんだろうなあ、なんて思っていて、それでもお花を選ぶのに、先輩たちのことを考えると、卒業していなくなっちゃうのがやっぱり寂しかった。あとその時はまだ写メとかあんまり撮らなくて、インスタントカメラを帰りに2つくらいコンビニで買った。まだ風がつめたくて、でも明らかに春の高ぶった気流を感じていた。弾けとぶような質感の記憶である。

たしか誰かのために花を選んで買ったのはこの時が初めてだったように思う。となると、こうしてエスカレーターを登ったり降りたりして花をえらぶようになったのもその時からのことなんだな。すこししみじみして、女子高生たちが先輩に渡す花をチューリップに決めて買うのを見ていた。あのひとたちののこり1年の高校生活が、花々のようにうつくしく瑞々しい青春の物語でありますように。



(そしてわたしも真似てチューリップを買いました)