2016年1月28日木曜日

ニャメン

きのう阿佐ヶ谷でしぬほどねむくて、でも仕方がないから歩いていて、赤ちょうちんに「にゃんこ」ってかいてあるのをぶら下げてる店を見かけてワーって思って、帰ってたくさん寝ておきて「にゃんこ」ちょうちんのことをハッと思い出し確かめにいったんだけど、「らーめん」ていうちょうちんだった。こういうのは案外かなしい。いろんなかなしみを抱き合わせで食らってるかんじがある。らーめんをたべて帰宅。チャーシュー麺。

2016年1月25日月曜日

田園調布

たまにいく街をぶらぶらしていて「ぽかぽか広場」という開けた公園をみつけたのだが時期柄ひえひえだった。照明がみどりいろだったので芝かなあと思ったけれども足触りはジャリジャリしていて芝ではなかったかもしれない。昼間にいくことがあれば確かめたい。



広場は丘になっていて夜景がうつくしく写真にとろうとしたが自分が撮れていた。

そして残念ながらぽかぽか広場で冷えてしまったからだを温めるべくずっと入ってみたいと思いつつなかなかタイミングがあわずにいたD&DEPARTMENT DINING TOKYOにふらりとはいってみる。お茶だけのつもりがカレーをたのんでしまう。珍しい野菜がたくさん入っていてたのしいカレー。カブがはいってた。カブって今までなんとなく存在を無視し続けていたけれど、おいしいんだな。見直した。とある昔話のせいで、カブというのは大きくて厄介というイメージがあったのかどうしても存在を受け入れられずにいた。昔話のせいかどうかは別としてもそうだったように思う。まあ今までこんなふうにカブのことを考えたことはなかったので、昔話のせいかどうかすら正直よくわからない。とにもかくにもはじめてこうしてカブに思いを馳せたのだ。1年くらいの間ずっと行きたいと思っていたお洒落なダイニング・カフェで、じっくりと、カブを。




2016年1月17日日曜日

また整体のはなし

年明けより早速整体に通いはじめる。帰りにセールでも見て帰ろうかと寄ったパルコのウインドウにうつったじぶんを見やるとすこしづつながら効果は現れているよう。

だけどまだまだただしい姿勢やただしい姿勢でいるじぶん自身に慣れずからだがおかしな感じがする。というか体調があまりよくない。
しらべるとこれはよくある話というか、まあある程度仕方のない話で「好転反応」とかなんとかいうらしい。からだの曲っていた部分に諸々悪因が潜んでいたのが伸ばされることによって散り散りに逃げ暴れているようなかんじだろうか。はやく改心し冷静さをとりもどして欲しい。

そういった体内の調子の変化ももちろん期待するところだがやはり見た目の歪みが改善されることにいちばん期待したく、経過をみるために一応写真をとっている。
とくに顔のゆがみはかなりきになるところなので、施術の前後にすっぴんの状態で髪をぜんぶ上げて真正面から真顔で写真を撮る。
そうするとやるまえよりもやったあと、1回目よりも2回目のほうがおかしさが軽減しているのがわかってうれしい。
ただ今後整体に通えば通うほどそんなあほ面の自分の写真がアイフォンに保存されていくのかと思うとすこし微妙な気持ち。

ちなみに整体院は通い出す前にも何軒か試したのだが痛いタイプの整体院にいくとモンゴルから来た先生が担当してくれることがなぜか多い。どの先生も大抵モンゴル語を教えてくれるので覚えようとするけど、からだをぐいぐい逆に曲げられながら教わるので施術がおわるころにはだいたい忘れてしまう。痛くて。

2016年1月10日日曜日

オート

久々に整体に行った。今年の目標のうちに整体にきちんと通い身体の歪みを直すというのがあるからだ。この計画は身体の歪みをとって美しく健康となり精神的な歪みをも修正しようという目論みで、この目標の達成をもって私は歪みのない実直な真人間となる予定だ。目標の達成のために12回の回数券を購入した。これを先に購入してしまったからにはきちんと通うしかなくなったので必ず計画は遂行されるであろう。しかも歪みをとるということに関してなにもかも整体師まかせにするつもりは断じてなく日々ストレッチや良い姿勢を保つことに努め効率的に達成を目指す所存である。ちなみに12回のコースが終わったらヨガ教室にも通うつもりだ。

ヨガ教室。ヨガ教室にいくつもりということを書くとなんだかとたんに恥ずかしくなる。ヨガをしている自分、をあらゆる意味でひとに見られたくないし、想像されるのもかなりつらいからだ。
ただ私の精神の歪みは結局こういうところに現れていると自覚しはじめ情けなくなってきたので敢えて明記した。

というのも私の精神の歪みとは結局できるかぎり歪みのない、クセがなくて人間らしさのない、目立ちやしないけど埋もれているわけでもない、極めてフラットな状態でいなければと思い込んでいるところにあるなと思う。
たとえば食事をものすごくおいしそうに食べるとか、流行りのものに飛びついてはしゃぐとか、そういう人間味あふれることをするのがものすごく恥ずかしい。だからヨガもはずかしい。意識高そうな感じがして恥ずかしい。
なんなら最近は、こうしてネット上などで感情を吐露することすら恥ずかしくなってきた。そのせいで最近は、文体が堅苦しい感じになってしまって、もはやそれも恥ずかしい。別に、こんなものはやってもやらなくてもいいし、どんなふうに使ったって間違いでは無いはずなのに。なぜか、恥ずかしい。感情や意識が周りに知れるのが、どういうわけだか恥ずかしいのだ。

今日の整体でも散々だった。すごく痛いのに、痛いと言ったり唸ったりせず、黙っていた。痛みから意識を紛らわせられるように、先生が雑談を持ちかけてくれたが、それにも必要以上に淡々と答えた。先生がそれを「ものすごく不思議」と言って、あっ、と思った。薄々気付いてはいたが、これは不自然なんだなあ、と。

とはいえ、それが自分の歪みなのだからと言って今後感情を全開にしていくつもりかといったらそんなつもりはなく、人間らしさを恥ずかしいと思わないくらいまで不自然じゃなくなりたい。

とりあえず整体にきちんと通い身体の歪みを改善してスタイルよくみえるようになって流行りの服とかを着てウキウキ歩いちゃうくらいになりたい。



2016年1月2日土曜日

あけまして御目出度う


正月はなにもしていない。正月料理を作って、ぼんやりねていた。年越しは家にいた。紅白みて、まあはやめに寝ようと思って布団に入ったが、こんな日は電車も夜通し動いているのにと思うと、途端に惜しくなり眠れなくなった。神社にいる人や、集まって年越しパーティーなんぞをしている人々の賑やかな声や足音が、枕元で聴こえてくるようだった。

去年はいろんなことがあった。激動の1年であった。いろんなことが変わった。近頃はいろんなことが変わり果てた生活にも、ほとんど慣れてきている。慣れて、今日無事正月を迎えた。呑気に餅など食べている。
こうしてあたりまえのように過ごしていると、ついさっき「いろんなことがあった」と書いたばかりではあるが、ほんとはいろいろなんて無かったのではないかと思えてくる。あったとしてもせいぜい1こか2この事で、ただただ普通に時がながれて、変わっただけなのかもしれない。

今年はどうなるだろう、またいろんなことが起きて、かとおもいきや結局なんでもなく終わるのだろうか。あとから思えばなんでもないのに、やってる間はなんで毎度毎度しんどいのであろう。

今年これからあるかもしれないいろんなことや、時がへらへらと過ぎていくなかでそれが掻き消され風化されていく空虚さを想像していたら、息苦しくなって結局正月からよく眠れなかった。