2015年10月11日日曜日

キャベツ

近所の、近所だけどあまり行かないエリアを散策していたら、知らぬ間に随分と歩いてきてしまったようで、一面キャベツが植わった畑のまんなかにいた。
10月に入りすっかり日も短くなって、17時すぎだというのにあたりは既に薄暗く、肌寒い。そのひんやりとした薄暗の中に自分が1人立っていて、周りには四方八方キャベツが植わっている。無数のキャベツの隙間隙間におそらく大量に秋の虫がいて、全員が全員羽を震わせ鳴いているようだが、それはつまり静寂である。なんていうところに迷い込んでしまったんだろうと不穏な気持ちになった。

そんなところにひとりでいると気持ちがすごく遠のいていくかんじがする。ここは果たして現代の東京であるのか、それともなにか記憶や瞑想の最果てであるか、わからなくなって怖くなる。だけどそれと同時にどこかこの上なくすばらしいことのようにも思えて、ノスタルジーであったりセンチメンタルであったりの美しい蜜を吸うような気分になる。はやく帰りたいような、別にまだここにいてもいいような気がした。

ほんとうにだれもいない。東京で暮らしていると、外にいてまわりにほんとうにだれもいないことなんてあんまりない。真夜中や早朝であればまだしも、夕刻はみな東京にある数少ない感傷の蜜を吸いにきているのか、誰かしらいる。しかし、いま夕刻であるのに、ほんとうにだれもいない。まわりに植わっているこれらは、キャベツのように見えて全て人の頭かもしれないと思うほど、異様。もしも歩みをとめようものなら、足がするする地面に埋れていくんじゃないかと思った。

それなのに歩みを止めてしまった。なぜならばわたしを追い越す影があって驚いたからだ。足元をトコトコ呑気に通り過ぎていった。ねこかもしれない。わたしはねこ見たさに目をこらし目の前をいくそれを追いかけた。幸いなことに足から植わってしまうこともなく、ねこらしきものもおもむろに足をとめ、しかもぐるりとこちらを振り返った。

そのとき遠くで電車のはしる音がして、それを皮切りにわたしの耳はこの町の生活のざわめきのような音を捉えるようになった。

目の前でたぬきがこちらを振り返っていた。ちょうど街灯に照らされていたぬきはスポットライトを浴びてるようだった。たとえば「すべて幻でした」などといった重大な発表が彼のほうからあり次の瞬間にキャベツ畑もろとも消えていたりするのでは、と覚悟したがそういうこともなく、わたしに提示された重大な事実とはただただ「奴がねこかと思ったのにたぬきだった」ということだけだった。

それから5分ほどあるくと知っている道に出た。夜になっていた。金属製のキャベツをあしらった石碑があり【キャベツの碑】というのを見かけた。金属製のキャベツはなかなか精巧なつくりだった。

東京にもたぬきがいてキャベツ畑がある。捨てたもんじゃないかなと思う。また何かの拍子に行けたらいいな。たぬきはキャベツを荒らさないようにしてほしい。



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