2015年4月30日木曜日

同じ幻

近頃は日々の記憶があいまいで記録も疎かなので長い日記をここに書いたが機器の電池切れにより全て消失する。

落ち込んだ私は風呂を沸かし半身浴をしながら今度は小説の執筆に取り掛かってみたが風呂で書く小説はだめ。はだかだし、あけすけ。

暖かくなったからか虫が外を飛ぶようになって部屋にも入ってくるようになって今部屋に種類のわからない飛行系の虫がいる。わりと大きく3センチくらい。小説を諦め風呂から出て部屋に戻ったらちょうど飛んでいたその虫に肩がぶつかってしまった。すみません、と私は心の中でつぶやく。

わたしはこういう虫を時より擬人化する。いや、人には限らない。この虫は私の見知る魂が虫に扮して現れたのだと信じてやまない時がある。しかも、あっあの虫はタイミング的にあの人、とか、おっもしかしてあの子?!とか感覚的にわかるのだ。それがまた絶妙な時々具合で思わないときは全くもって思わないのでその点信憑性が高いはず。ちなみによく来るのは亡くなった祖母である。もちろん存命の者、そもそも命とかじゃない場合もある。知らない者が来ることはない。知らなかったらわからない。そしてひとつ言えるのは相手は私が既に失ってしまったなにか、もう二度と会うことのできない存在だということ。

この話を人にするとオカルト的だとか気味が悪くない?とか言われるが特に気味は悪くない。ただ写真を撮ったり具体的にこの虫が誰だとか人に言うのはあまり気が進まない。今日の虫の正体も伏せておく。要は個人情報、プライバシーというやつ。祖母については……実は母も同じことを言うので敢えて記載する。祖母はいつも美しく華奢な虫の姿で現れる。まあ誰もがゾッとするようなおぞましい虫の姿で現れた者はいないが。祖母はさりげないお洒落が好みだった。それが感じ取れるような姿。

虫は天井に、私は布団の中にいて、言葉は交わさない。ただ同じ空間にいて、夜が更けて、明日か明後日には何処かへ飛んでいってしまう。

こんな寂しいことってある?

この話はそういうお話だ。見つめても見つめても同じ。わたしは元気にやっています。変わったことがたくさんあって、お話したいからまだしばらく、同じ幻見れますか、とか、いつでも飛んでいなくなれるであろう虫に尋ねるのだ。というか虫って心とか耳とかあるの?もはや自分にあるかすらわからないけど。

私は考えるのをやめて眠る。虫も多分ねむろうとしている。おやすみなさい(おやすみなさい)























2015年4月25日土曜日

風化する

桜の花びらが窓からはらりと飛び込んでくる音とか雨がアスファルトを打ったときにたちあがる匂いとか公園のあおい草原をはしる風や雲の影とかホームに差す夕陽が金色の粒になって髪を透かすこととかそれらの美しさや情緒もすべていつのまにやら昔みた夢のようになってしまった。あるときふと見返した写真フォルダには似たような空の写真が並んでいてああ無意味、容量足りなくなるからこれら全て消すしかないやと思ったり、そんなことを繰り返してるうちに瞳は純度を失っていった。突如訪れるずきんとするような胸の痛みを回避する方法も身につけたけど埃色の虚しい気流がずっと胸のあたりに停滞するようになった。

短いスカートをひるがえして自転車で駆け回ったあの日の桜、あの日の夕立、あの日流れた雲の影、季節の移り行くエネルギーに敏感で涙だってすぐ溢れた日々の記憶にわたしは想いを馳せました。あれは思い出だからあんなふうに美しいの? そういうわけではないと思うんだけど。ずっとああやって情緒を糧に飛び回る風のようでありたかった。今、大人になって得た何を失えばあの日の感覚に戻れるのかしら。そういうことを考える。多分、そういう問題じゃないのは分かっているのだけれど。

(「秒速5センチメートル」というアニメを見ました。)




2015年4月14日火曜日

神経

雨の中買い物に行ったらパン屋さんも八百屋さんも「雨の日のおまけ」をしてくれた。
ある商店の店頭に掲げられたホワイトボードには大きく傘のマークが描かれており、その下に
『今日の名言:ばかばかしいとわかっていてばかばかしいことをしているならばかばかしくない』
といったようなことが書かれていた。

買い物の後母親の病院までバスで向かう。
混み合ったバスだったが乗り合わせた他の客はばらばらと先に降りていってしまってじきにわたしは1人になった。雨粒がたくさんついた窓から外を眺めているとエンジンが止まった。長い信号待ちでアイドリング・ストップを実施したようだった。バスひとつぶんの静寂の中なんとなく意識を遠くへ投げようとして、いざ振りかぶったくらいのところでなにかガサガサガサ コロコロという音が車内に聞こえ渡りハッとした。運転手のアナウンス・マイクのスイッチがオンのままだったようで、運転手は飴をたべているらしかった。
飴を食べるのは良いけどライブ中継は困るなあ、なんて思っているとゴソッという音と同時に運転手がくるりとこちらを振り返った。
わたしは驚いたが動じなかった。客が何人いるか確認したのだろうと思って、わたし1人きりですまないと思った。再びエンジンがかけられ、バスが動き出すとマイクの音も気にならなくなったので、わたしは再び窓の外へ目をやった。

そのときであった。運転手が何か喋りだした。アナウンスではない。
「いやぁさっきのお客さんは残念でしたね、気の毒だったけどあそことあそこの間ってバス停ないから」
まったく話がわからなかった。無線で誰かと話しているのかと思って何も言わなかったがよくよく考えたら無線でさっきのお客さんとかどことどこの間とかタクシーじゃあるまいし、もしかしたらわたしに話しかけているのかもしれなかった。
しかしわたしですらそのさっきのお客さんのくだりを知らなかったので、返答のしようがないまましばし時間が経ってしまい、もうどうしようもなくなった。
以後わたしはどうするべきだったのかしらと考える以外のことは出来ず、やもすると先程運転手が振り返った際に定年退職後病気が発覚し闘病の末亡くなった先輩運転手の霊かなにかがいて、戸惑い少し気まずくなった挙句の業務寄りな雑談だったのかもしれない、などと妙なことを考えてみる。そうすると先程飴を食っていたのは?とかさらにおかしな方向へ思考が巡ってしまってその間やっぱり黙りこくることしか出来ず、結果的にシカトしてしまった。

そうこうしているうちに降りる駅が近づいてきてわたしは降車ボタンを押した。短いブザーの音が鳴り止むと運転手はハキハキとした口調で普通の車内アナウンスを行うのであった。なんの違和感かはもう分からないが居てもたってもいられなくなり駅につく少し前の時点でわたしは席を立った。そんなわたしを目視するや運転手は極めて業務的な口調で着くまで席を立たぬよう注意してくるのであった。

ばかばかしいことは、もちろんばかばかしいとわたしは思うのだけれど、あの運転手と雨のせいで神経の乱れがひどく、ずっと頭が痛い。

2015年4月13日月曜日

『ぽぽぽぽぽぽ』


冷蔵庫の中にひび割れた生卵があってずっと気になっていたのでそれを食べようと思った。なんでも良かったのだけれど思うことあってただ茹でることにした。

お湯を沸かすあいだひび割れた部分をよく見てみたがあんなに静かな亀裂がこの世に他にあるかしらと思った。明らかなる亀裂、いまにも崩れてしまいそうなのに卵はまっしろな静寂を保っている。じっと見つめれば見つめる程ああ1秒後に静寂を破られそう、くちばしが飛び出してきそう、どうしようとか諸々の不安を駆り立ててくるくせにいつまでもやさしい丸みのまっしろのまま。どれくらい見ていただろうかいつのまに湯の方がばくばくと湧いていた。

ゆで卵って案外作る機会がなくて正直あんまりルールがわからない。
このあいだたまたま彼の家で作ろうとしたとき同じようにひびの入った卵があったので使ってしまおうとしたところ、彼が「それはだめ」と言った。なぜかと聞くと「ぽぽぽぽぽぽってなっちゃうから」ということだった。その口ぶりは都市伝説でも語るかのようだったのですぐにひび入り卵を取り下げて他の卵の表面をくまなくチェックし、最もぽぽぽぽの危険性のないものを使った。
おかげさまでちょうど良い塩梅のゆで卵が完成したので良かったのだが、あとからよく考えてみるといっそあの時そのぽぽぽぽぽぽを起こしてみたかったとも思った。

そういうわけなので今日は敢えてひびのはいった卵を静かに鍋へ投入したまでだ。それから7分間鍋を見つめていたのだが本当にぽぽぽぽぽぽとなってしまってすぐに卵がどうなってるんだかよくわからなくなってしまった。白いメレンゲのようなものがずっと水面に湧き続けてぐるぐる回っていた。火を止めてすぐにそのメレンゲ状のものをつまみ出して食べた。みずっぽい卵の味がする。結構な量だった。あの卵は全部このぽぽぽぽになってしまったのね、残念、なんか勿体無いから試すんじゃなかった。と一瞬思ったが、殻や黄身が無くなるはずはないと思い直す。よく見ると鍋のなかに奇形の卵が沈んでいた。
ちょうどひびの割れていたところから、白身がサボテンの子株のようにぽこっと飛び出している。あれだけぽぽぽぽとしてしまったのに、白身はまだけっこう残っていたみたいだった。殻をむいてもぐちゃぐちゃにはならなくて、ただ丸みの狂ったゆでたまごが完成していた。例えるならシャボン玉が繋がって出てきちゃったときのような形である。丸くなくはならないんだと思った。その辻褄の合わせ方が奇妙で仕方がなく、あの日の彼の都市伝説を語るような口ぶりを思い出して共感した。

妙形のゆでたまごは塩を振ってビールを飲みながら食した。なにか珍しいものをつまみにしているようで気分が良かった。
写真を撮れば良かったがあのような奇妙な被写体をデータとして残しておいてあとで見たときにどう思うか心配になり撮らなかった。


ちなみにぽぽぽぽぽぽといえば、荻原裕幸という人の短歌に『恋人と棲むよろこびもかなしみも ぽぽぽぽぽぽとしか思はれず』というのがある。わたしはこの歌がとても好きなのだけれど、実際には恋人と棲んだことがないので本当にわたしが「ぽぽぽぽぽぽ」となるかどうかはまだ確かめていない。でもきっとわたしが恋人と棲むことになったらきっとよろこびもかなしみも「ぽぽぽぽぽぽ」になる気がしている。その「ぽぽぽぽぽぽ」がどういうきぶんなのかもまだ想像の域を出ないが、卵のぽぽぽぽぽぽというのと似てるんじゃないかな、と思う。