2014年12月28日日曜日

微熱

冬はきらい

冬になると顔の皮膚が乾燥してぴりぴりする
そんなことをしていると必ず肌が荒れてわたしはただでさえ肌がうつくしい方ではないので落ち込んでしまう。
アンパンマンという強いパンは顔が濡れて力が出ないことがあるらしいがわたしはどちらかというと顔が乾いたときに力がでなくなる。
実際にいま顔どころか全身が乾いたようなかんじになってへろりとしている。出かけたり人にあったりする気力が出なくて家でずるずるとテレビをみていると例の強いパンが出てきて聞き馴染みのあるテーマソングが流れた。幼い頃のわたしは解ってるんだかないんだか知らんがアンパンマンを見るたび感涙していたらしい。改めて見ているとドキンちゃんが食パンの事を好きでアプローチをかけまくっている様子などが随所に描きこまれていて、アレ昔もこういう感じだったっけ、今も昔も変わらず子供たちはアンパンマンに釘付けなようだけど恋心とかわかってるのかな、わかってたんだっけ、と自らの記憶を手繰り寄せつつ今回のアンパンマン全部見てまたちょっと感動した。顔が渇いたり濡れたりで今どのくらい力が出るかどうかももうわからない。


2014年12月16日火曜日

発光する


部屋にかけていた時計が壊れたのでちいさな置き時計に新調した。ついでに来年の卓上カレンダーも購入して机に並べて置いた。しかし時計にはまだ電池を入れていないしカレンダーにはなんの予定も書いていない。どちらも真新しく美しいのは良いが、とくにこれといった情報を含まないまっさらな数字の羅列を部屋に並べて置いておくことはとち狂った思考にも思える。しかも、一方はめくれば次のページにもそういう数字が連なっているし、もう一方は数字がまあるくならんでる。意味がわからない。いやわかるんだけど、よく考えると「は?」って思う。

中学のとき通っていた学習塾の先生に「基本的にはくせ字だけど数字だけはきれいに書くね」と言われたことがあってそれ以来なんとなく数字表記にデリケートになってしまった。数字が並んでいるのを見るとそこに独特の手触り(浮遊する大量の数字の群れの中に体をうずめられてしまったような、或いは、各方向からランダムに数字がぶつかってきて「7」とか「4」とかの鋭角の部分が肌にこすれるような感触)を想像してしまうので時刻表とかものすごく苦手だ。かなりえぐい陣を組まれているきがしてしまう。数学も苦手。

精算作業をやらねばならないのだけれどそれもたくさん数字があって怖ろしい作業だ。いつの間に年末だし12が1になって4が5になるの? ゆるやかに青白く発光する数たちをながめている。

2014年12月15日月曜日

猫の不在

夏のはじまるころに突如現れ仲良くしていた猫が幻のようにいなくなってしまった。

これまで猫にしっかりと触れたことなどほとんどなく、おなかの毛がせなかの毛よりも長いことも、長いひげや耳がアンテナのように動くことも、鼻先があんなにぬれていてつめたいことさえもあの子と出会ってはじめて知った。
そんななにもわかっていない私のところに彼はいつもうれしそうにトントンとやってきて膝の上や肩にのったり鼻にキスをしたりフガフガいいながらくっついてきたりする。一緒にふとんに入って眠っているといつのまにか彼だけ起きて私の髪の毛を手でとかしてくれたりもした。
彼は基本的にはだいたい黙っていてたまに何らかの頼みがあるときにだけにゃーんとかオアーとか言って鳴いた。人間の私にはなにが楽しいんだかわからないようなことを永遠に続けている事もしばしばあって、彼がいったい何を考えてるんだかほとんど分からなかったが、友好的で可愛らしい彼のことを私は油断すれば涙が出てきそうなほど愛おしく感じた。彼と仲良くなって3日目くらいにはわたしはそのことに気づいていたので彼のことを愛之助くんと名付けたのだけれど、それだと長いしどこぞの歌舞伎役者さんと被っているので「クロ」とか「にゃにゃ」とか「こね」とか「こにゃ」とか呼んだ。いつも返事は無かったが、なめらかな曲線を描くあたたかい毛のかたまりがすぐそばでなにかしていると言うだけでとても幸せな気分だ。

それがいきなりいなくなった。楽しそうに外へ出かけたっきりもう3日も帰ってこない。
朝と昼と夜、外を歩き回ってさがしたがどこにもいない。あいつはベランダや庭に転がって日向ぼっこをするのが好きでその姿がほんとうにかわいいので、もうすっかり窓の外をちらりと見るのが癖になってしまったのだけれど、いまは見たってなにもいない。それでも私は外を見るが、空虚な冬の庭にあの子はいないのだ。つまらない庭。冷たい庭。きのう一度ちらっと外を見たとき庭の芝のところであいつが横たわっているようなきがしてハッとなったのだが、よくみたら似たような色のとび石だった。胸がどきどきして一瞬時間がとまったようになって、そのあとたくさん泣いてしまった。部屋に戻っても悲しみがおさまらないので、久しぶりにギターを出して少しだけひいた。これもあいつが登っていたずらするんでしまっておいたのだ。一度登って倒してしまった拍子にガシャーンと音がなったもんだから、あいつはびっくりしてすっ飛んできて、面白かったのでケラケラ笑ったらすごくしょんぼりしてしまって、ゴメンねって言って励ますとそろそろギターに近づいていってお尻をぷりぷりしながら飛びついていた。さすがに叱ったがすごく納得のいかなそうな顔をしていて、申し訳なかったけどとても可愛かった。
(ああいうのを理不尽に思ってどっかいっちゃったのかな)そういうことも思う。そうやって結局あいつの事ばかり考えちゃってギターの練習もいやになって、ギターをひざの上にのせたまま固いなあとか冷たいなあとか考えた。ギター職人さんがよっぽどこだわりぬいたであろうボディの曲線も、ねこのなめらかな曲線を一度味わってしまうともうちっとも信じられないのだ。ねこと同じようにガシャーンとやってみようか、そうでもしたい気分、いやでもそんなことしたらそのまままたたくさん泣いてしまいそうで、ギターをそっと壁にたてかけてそのまま眠った。こねと同じ黒トラの柄の、微妙にちがうたくさんの猫がうちにくる夢をみた。

これからもう一生あの子のいない、張り合いのない人生を送ることになるのか。正直あの子のほかにもわたしには大切な人間がたくさんいるけれど、ねこの不在はどうもとてつもなく堪えるのだ。
せめて、たのしくお出掛けしてくれているのならば良いが、このつめたい夜に、どこかで震えていたり、おなかが空いて鳴いていたりしているのならばとてもじゃないけどいたたまれない。ねこどこへ行ってしまったのだろう。じゅうたんにきみのヒゲがいっぽんおちていたから、幻じゃないのはわかっている。わたし、猫のヒゲいっぽんをにぎりしめて、声をあげてわんわん泣いてしまうなことが、人生のうちに起こるなんて思ってもみなかった。



2014年12月6日土曜日

病院/心臓

会社の健康診断で心電図の波形をとったら何だか変だったらしく、精密検査をすることになった。それで今日病院に行って改めて心電図をとったのだが、今回はなんの異常もなかった。「おかしいわね全然大丈夫そうだけど」と印刷されたわたしの波形をながめて不思議がる女医さんはとてもきれいで、ぱりっとした白衣にパソコンのモニターの光が反射して神様みたいでドキドキした。いままた心電図をとったらそれこそそのドキドキが波形に現れて先生は眉をしかめるのかなとおもうと恥ずかしくて心臓を抑えたくなった。そういえば健康診断のときわたしはなにかドキドキしていたんだっけ、わすれたけどドキドキしてしまうような出来事があってドキドキしながら心電図をとったからへんな波形になったのかもとおもってその事を女医さんに話すと「そんなことでいちいち波形が乱れていたらそれこそおかしい」と言われてしまった。
だとしたらときどきハッとするような出来事のあったときなどに確実に体感するドキドキはいったい何なのだろう、絶対に心臓のあたりがドキドキいうのだけれど関係ないのだろうか。ドキドキするたび心臓にわるいわ〜とかこれは恋だわ〜とか思ったりするがあれは心臓が判断してるんじゃないのかしら、心臓のきもちとノリがわからないから心がどこにあるかわからない。

2014年11月27日木曜日

ミルミル

弟がミルミルという飲み物を絶賛していてしきりに勧めてくるので久しぶりに飲んだ。
小さい頃はよく飲んでいた気がするがいつの間に存在すら忘れていた。
手に持ると「ミルミルってこんなに小さかったっけ、いやわたしが大きくなったんだな」っていう大人になってしまった自分をしみじみ感じるイベントがすぐに執り行われて瞬く間に終了した。たとえば通っていた小学校を久々に訪ねて「こんなに校庭狭かったっけ」云々の場合だったらもう少し尺のあるイベントになったと思う。それは校庭とミルミルの差である。

味の方もほとんど覚えていなかったが、決して甘くはなく、しょっぱい系でもすっぱい系でもなく、濃くも薄くもない、やりたい事とか特にない持て余した大学生の午後4時みたいな味がした。

ところでわたしはミルミルのような乳酸菌飲料のパッケージにありがちな「6億の乳酸菌が生きたまま腸ではたらきます」みたいなアピールコメントがすごく苦手だ。
たとえば駅で集合した大勢の登録アルバイトが派遣先の工場までぞろぞろ歩いていって集団労働をするみたいにして、自分の腸のなかに6億の乳酸菌がぞろぞろ来て集団労働しているかんじを想像してしまうからだ。
ミルミルにもそのようなことが記載されていたのに飲み終わってから気付いてしまい、以来、お腹の調子がすこし変だ。




2014年11月25日火曜日

きみが好きだよエイリアン


先週職場でたまたま垂れ流されていたラジオからとても心地よい曲が流れてきてうっとりぼんやりしてしまい、仕事はおろかその曲が誰の何であるかすら聞き取るのをわすれてしまった。
まあ聞いた感じキリンジだろうと思っていたからせっかくうっとりしてるのを急に耳ダンボにして誰の何か聞かなくてもあとで調べられるだろうと思った。

それでうちに帰ってネットで調べようとしたけれども、ふだんまったくラジオを聞かないのでそれがどこのラジオ局のなんの番組だったかということすらわからなくてまったく見つけることができなかった。
ダメもとでiPhoneのsiriを起動して脳裏に残っているメロディーの一部を自ら鼻歌で歌ってみたけれどもワカラナイと言われた。

それで2日くらいは諦めて放っておいたけど今日昼休み中にまたどうしても気になってきて、該当しそうなラジオ局にかたっぱしから電話をかけてやっとの思いで教えてもらった。
やはりキリンジの曲で「エイリアンズ」というやつだった。
改めて聞いてやっぱりすばらしく帰りの電車で少し泣いた。

2014年11月24日月曜日

メラニメ

最近は筆ペンにはまっていて、家にいるときは筆ペンをつかう。メモをとるときも日記を書くときも筆ペンだし、たまに絵もかいたりする。
本当は仕事のときも筆ペンを使いたいくらいだけれど、なんとなくそれは躊躇している。
使っている筆ペンはコンビニで買った「ぺんてる」のものだけれど、特にこだわりはない。
でも、某雑貨店で半額セールになっていた「カラー筆ペン」というものは、半透明の人工繊維みたいな筆先に色のついた液体のインクを染み出させて使うもので、使っていて不安な気持ちになるので気に入っていない。
不安になる理由はわかっているようではっきりしないので書かないし、想像におまかせする。


ひゅうどろ

今日は一緒に仕事をしたひとの霊感がつよく、ああこういうところは具合がわるくなるから困る、といってがっくりしていてかわいそうだった。わたしは霊などについて確実に信じてはいるが、いたところではっきりわからないし具合がわるくなったりすることも特にないので、へえ、いるんだねえ、どんな奴だろう?とか言ってへらへらはたらいていた。

でも仕事がおわりひとりで帰りながらよく考えてみると、今日仕事をした場所で仕事のときにはいつもきまってやる気が出ないなあということを思い出した。
そこではいつもなかなか頑張る気になれなくて、あ〜やだなめんどくさい、かえりた〜いと常におもう。特にその場所は2階建てなのだがいつも2階に登るのがすごくめんどくさくて、だるいなあと思いながらぼんやりして、いつも知らない時間が経ってしまう。
このことについて、これまではずっとただ単に自分に気合いが足りず、不真面目だからやる気がでないだけで、わたしっていう奴は本当にダメだな奴だよと我ながら呆れていた。しかし、今日のことをふまえると、なにもわたしのやる気がないわけじゃなくて、霊的なものによってやる気が削がれてるの可能性が大いにあるな、と思った。
(近頃、あらゆる不穏はすべて妖怪のせいであるという風潮があるという話もよく聞く)

まあ結局なんにも解決してはいないのだけれど、そのあとなんだかすっきりして気分がよくなり、最寄りのスーパーでお菓子をたくさん買って帰った。

2014年11月17日月曜日

さとうみず

コカ・コーラの広告を見かけてどうしてもコーラがのみたくなり、深夜にこっそり部屋を抜け出して近くの自動販売機まで買いにいった。
時間も時間だしすぐそこなのでだれにも会わないだろうとたかをくくり、洗いざらしの髪のまま革ジャンを羽織って外にでたのだけど丁度コーラを買ったところで仕事帰りの友人にばったり会ってしまった。
友人が、
「おふろあがり?売れないミュージシャンみたいな髪型になってる」
とあまりにも正直に突っ込んできたのでクッと思い、
「売れてるよ」
と言い返してしまった。ミュージシャンですらないのに。
そんなことがあったからかあんなに飲みたかったコーラも全然飲みたくなくなって寝ている弟にあげた。

2014年11月11日火曜日

サービスカウンター/店内アナウンス

徹夜明けで朦朧としていたが多肉植物の土を求めてホームセンターに行った。自分で見つけ出す体力がなく店員さんに問い合わせるも眠くて呂律がまわらず「たにくちょくぶつのちゅち たにくちょくぶつのちゅち…?」とめちゃくちゃに噛み倒した。数回言い直したけどぜんぜん上手にいえなくて、大人気ないがその場で号泣しそうになった。店員さんは察してすぐに取りに行ってくれたのだけれど、よく考えたら既に昨日別の店で購入してあることを突然思いだし、慌てて逃げだしてしまった。


こんな情けない出来事はできることなら人生の記憶から切り取って捨ててしまいたいような気持ちだったが、うちに帰って倒れるように眠ってもずっとこのことでそわそわしていた。恥ずかしくさと情けなさと申し訳なさがどんどん新しく湧き上がってきてはゲル化し、あたまと体にまとわりついて染み込むようだった。


わたしはこういう後味が悪くてしょうもない夢をよく見るので、これもその類の夢の記憶だよねとやけくそな頭で思ってみたりもしたが、ベランダにたにくしょくぶちゅの土が二袋もあるのを見るとこの手厳しい現実に脳みそが萎縮する。



2014年10月23日木曜日

天使たち

山手線に揺られているとそこへ幼い女の子ふたりとその母親らしき女性が乗ってきた。女の子たちは双子であるらしく瓜二つ、服もお揃いのものを着用しており同じ背丈で足並みもそろっていた。そのうちのひとりがわたしの隣の席にちょこんと座る。こちらは妹さんであるらしくお姉さんの方は母親に肩を抱かれながら鏡のようにして目の前にいる妹さんと理由もなく笑い合うのだった。
わたしは席を立ちお姉さんの方に席を譲った。彼女は幼いしなによりこのそっくりのふたりはなかよく並んで座っていたほうが景観がよろしいからだ。

彼女は「おねえさんありがとう」と言ってわたしのいた席にちょこんと座った。わたしはふたりの母親とならんでふたりの前に立っていた。瓜二つのふたりは常に同じリズムで母親とわたしを交互に見てはとても嬉しそうに「ふふふ、うふふふ」と笑うのだった。わたしはあたたかい気持ちでいっぱいになりその電車を降りたあとに乗り換えた井の頭線の車内でおおよそ1時間ほど眠った。

2014年10月22日水曜日

捻れた背骨

先日はじめて整体にいって、からだの歪みをみてもらったらば、「坂本さんの背骨はかなり捻れています」ということだった。
多少歪んでいるだろうな、とは思っていたが、捻れているのは予想外だったのでなかなか戸惑った。
背骨が捻れているということはつまり、常にまっすぐな方を向いていなかったということで、わたしはこれまで、そのような根本的な都合によって不必要なよそ見を続けていたということになる。たしかにそのように言われてみると、身体的にも精神的にも、わたしはよそ見がちである。

整体の先生はその場でわたしの骨らを誘導して、正しい位置に戻そうと努めて下さった。だけど残念ながらわたしの背骨は先生ですら想定外なほどに捻れており、その日のうちに完全にねじれを解くことはできなかった。

それでも整体院を出てからの景色や心持ちはそれまでとまったく異なり、「まっすぐというのはこちらの向きだな」という感覚がわかるようになった。
それからはえらく溌剌としてド直球、よそ見をせずにまっすぐ前へ向かうような日々が続いて大変充実した。姿勢がよくなり気持ちもすらっとしていた。
しかし悲しいかな捻れた背骨は根が頑固だったようで日を重ねるごとにまたよそ見がちなからだになっていったら。最近はそれがあまりにも顕著で寝つきも悪い。このままではまた捻れた思想に呑まれてしまいかねないので、近日中に再び整体院を訪ねる予定である。



2014年10月21日火曜日

10月20日

冬はきらいです。寒くなるのがおそろしい。でもきょうから冬用のあったかいおふとんで寝るからうれしいな。あとわたしは毎年、ヴォジョレ・ヌーヴォが解禁した日から毛糸のマフラーを巻いていい決まりにしています。理由は特にありません。お酒なんて飲めなかった中学の時から勝手にそう決めています。(ストールはそれより前から巻いて良いことにしています。寒いからネ)

おしまい





2014年9月30日火曜日

未完成

つぶしたり踏んだりベープなんとかを起動したりした覚えはないのに弱った蚊が寝室の床を息も絶え絶えに歩んでいた。

虫の息とはよく言ったもので虫が虫の息だともはや他に例える対象を思いつかない。

すこしして歩みを止めた蚊は糸くずのような足に辛うじて含まれていた力をふわりと抜き息絶えた。

彼の死因は結局のところ不明であるがそのへんのベチンと叩かれて死ぬ蚊よりは美しく、完成された死であった。

しかしかといって亡骸をそのままにしておくわけにもいかずせめてティッシュでやさしく包もうとその場を外し、ティッシュを持って戻ってきたらその姿はどこにも見当たらなくなっていた。

どこからが幻だったのだろうか。今度はこちらが弱ってしまった。

2014年9月6日土曜日

天国

きのう久々に銭湯に行った。

実家ぐらしで風呂もあるから銭湯に行くことはほぼない。行きたいと思うことも一昨年くらいまでは全くなかった。去年の夏、死ぬほど消えたかった日々のうちに突然、「あ〜銭湯でもいったらさっぱりするかしら」と思ったことがあった。とにかく生き心地のわるい日々だった。それである休日の夕方にひとりで吉祥寺の銭湯にいった。良すぎた。バブル・バスの泡が弾ける音や桶がタイルの床をカコーンと鳴らす音やらを、湯けむりが白みがかった静寂に替えていた。知らない女の人のはだかとわたしのはだかを比べてあまりの情けなさにくやしくなった。わたしもあんなふうになりたいって久しぶりに希望みたいなことを思った。ずっと天国にお邪魔しているような気持ちだった。帰りたくなくて、めちゃくちゃな気持ちになったんだった。


その後しばらくは死ぬほど消えたい日々が続いたしむしろ消えかけてきて死にそうだったけどいろんな変化や人の助けもあり今はもう元気だし、きのうはいつかみたいに現実逃避的なことではなくただ単純にお風呂に入りたくなったから銭湯にいった。桶が床を鳴らす音も、湯けむりの色も、前とまったく同じだったけど、あのときみたいに感傷を呼び寄せたりはしなかった。ふつうにからだを洗って、髪を洗って、当たり前のように湯船につかってあったまって。体もすこしふっくらしたし、あのときのしらない女の人みたいに、少しはなれてるんじゃないかって。勝ったような気持ちになった。もう天国の住人です。


天国サイドの人間なのでもう死にたいとか消えたいとか思わない。一度あの頃のような現実と夢の間を彷徨うみたいな生き心地を経験してしまうと、当たり前のように風呂に入って体洗って髪あらって湯けむりの行く先に耳を傾けないのは繊細さに欠くような気がしてすこし寂しくもあるけど、いつまでもああしてはいられなかったんだ。勝ちに行かなきゃいけないよ。湯けむりの向こうには富士がみえました。

2014年8月31日日曜日

夏は幻

八月も末。こんなにも夏が短いのは、わたしが大人になってしまったからですか。「大人になんてなりたくなかったんだよ俺は、夏が短いんだもの」と、いつだったか親しくしていたひとりの大人が言っていました。わたしは大学生でした。夏は続かずとも、残像くらいはずっと続くと思っていた。永い夏。終わらない残像。その先端を咥えて、野良猫のように、かわいいお顔で、どこまでも走ってゆけると。いつまでだって、わたしならそうしていけると、そう信じていたのです。

八月のおわり、身軽なドレスに身を包んだわたしは、ストッキングも履かずに、スポーツカーの助手席に乗って、夜の高速道路を走っていました。時速120km。あのころよりも速いスピードで。ベガ、アルタイル、デネブ、ベガ、アルタイル、デネブ、ベガ、アルタイル、デネブ、あれらの星に届きそうなほど遠くまでいくつもりでした。
蝉。いくつもいくつも死にました。それでもいつまでも鳴いていました。「あれは誰のために、なんのために響くのをやめないのか?」「そんなことはわかりきっていること」夏を終わらせないためです。共鳴するひぐらし。夕立のあとのモワリ。喫茶店で氷がカラカラするコーヒー。堕ちた朝顔が、コンクリートを赤紫にそめること。雨戸の閉じた縁側に、風鈴だけがみえること。それらすべてが夏の残像であることに、だれもが幼少のうちに気づいているはずです。

わたしはふと思い立って、さきほどからいくつもいくつも噛んでいたボール・ガムを指でつまんでのばしました。甘い味がしなくなるたびにもうひとつ、もうひとつと口にいれていったので、それはどこまでもどこまでも伸びました。「ほらこのようにどこまでも永遠に。」そのように発音した途端、ボール・ガムのかすはへろへろと散りました。口を動かすべきではなかったのです。

気付けばわたしは冷たいべらんだの床にぺたりと座っていました。綿のハーフパンツにはパーカーとスニーカー。裸足でしたが、靴下がいるなと思いました。風鈴のかわりに鈴虫が鳴くのがありありとわかりました。高速道路などこの世にはなかったような気さえします。
パーカーの袖をできるだけ伸ばして掴んでいないとチリチリします。だけどパーカーの袖はどこまでも伸びません。ガムはどこに捨てたんだっけ、高速道路の風景を思い出します。右隣で誰かがこう言ったように記憶しています。にこやかで儚げな声でした。「夏は幻だよ。」

夏は幻だよ。

2014年8月8日金曜日

電車のなかで居眠りをしたら真っ白な部屋の真っ白な机の上にものすごくたくさんの見たこともない花(グレーとベージュの花 ちいさい 数量は各500くらい)をひろげてそのひとつひとつの花びらからピンセットで丁寧に葉脈のようなものをつまみ取る夢を見た。

目を覚ますと向かいの席に座ってる人が「明日から俺なつやすみ〜あ〜」と言いながらビニール袋に吐いていた。

気を確かに持つこと。と考えながら渋谷で降りた。